伊都国と邪馬台国間の千五百里が、水行で十日陸行で一月も要する理由

● 里程から算出される伊都国-邪馬台国間の距離はたったの千五百里なのに、

   水行で十日もかかる理由は船で長崎半島を大きく回り込んで行くからであり、

   陸行で一月もかかる理由は弥生時代の倭国の道路事情が粗悪だったせいである。

 

伊都国から邪馬台国へ至る行程を現代人の頭で考えずに、弥生人の視点に立って、

当時の倭国の交通事情を想定してみたら、上記の結論に至りました。

 

☝の条件を基にそれぞれの里程と行程を書き込んだのが☟の地図であります。

地図では邪馬台国へ至る里程の短さと日程距離の長さが矛盾なく両立されています。

 

〇 末蘆国から伊都国へ至る東南陸行五百里(多分要十日)

〇 伊都国から邪馬台国へ至る南陸行一月(=千五百里)南水行十日

〇 及び伊都国から投馬国(薩摩国)へ至る南水行二十日

 

投馬(とうま)国が薩摩(さつま)国であることに関しては、

私は、薩摩国 ⇒ 蔑字で殺馬国 ⇒ 略字で投馬国であると見做しています。


南水行十日【放射説】によると伊都国から邪馬台国に直接至る距離となりますが、

これは途中で刻々と変わる船の方角は考えずに最終的に南に至る行程のことです。

なにしろ、伊都国の南は山なので、直接南へは水行できません。

つまり、必ず海岸に沿って、東回りか西回りで水行する必要がありますが、

東回りでは上記地図からも相当遠回りとなるので、必ず西回りを選んだことでしょう。


即ち、伊都国から邪馬台国への水行は、

伊都国から一旦西に向かい、平戸瀬戸を通過後南下していき、

長崎半島を大回りして長﨑鼻を掠めた後、東に向かって天草灘を通過、

早崎瀬戸を過ぎると島原湾から有明海にかけて遠浅の海を北上していき、

最後に矢部川を遡上して、船小屋辺りに至る行程が考えられます。

船小屋からなら卑弥呼の居城が在ったと思われる女山の麓まであと僅かです。

 

つまり、伊都国から邪馬台国へ直接陸行すれば千五百里でも、

水行では上記地図のように長崎半島を相当回り込むことになるわけだから、

実際に水行する距離はかなり長くて、直径1500里の円周を辿ることになり、

1500里×π(3.1415・・・・)=4713里程だから、

だいたい周旋五千里可(ばかり)はあることになります(☝地図)

 

弥生時代の手漕ぎ船は効率が悪く、現代の伝馬船より遅かっただろうから、

一日あたりの走行距離は短く、渡海の場合などに最大限の努力をしても、

壱岐-対馬の各島間を渡る一千里程が精一杯だったはずです。

 

だからそれ程頑張らない普段の沿岸沿いの水行距離はもっと短かったでしょう。

また、有明海には汐待ちもあり、港で待たされる時間も多かったことでしょう。

以上より邪馬台国への水行は平均日速五百里二日で一千里程と考えられます。

 

つまり南水行十日伊都国-邪馬台国間の周旋五千里可の水行日程に適当です。
 

もう一つ、南投馬国に至る水行二十日の行程ですが、

 

邪馬台国へ至る行程と同様に最初伊都国から西に向い、

平戸瀬戸を通過後、九州西海岸をずーっと薩摩半島まで南下して、

開聞岳を回り込んで、錦江湾に入ると今度は北上に転じ、

投馬国=薩摩国、即ち、現在の鹿児島市辺り迄至る行程だと考えられます。

 

投馬国迄は地図上で邪馬台国の倍程の距離があり、南水行二十日も又順当です。


勿論、帯方郡使はこの二つの水行航路を実際には辿っていません。

この二つの行程は両方とも、帯方郡使伊都国の役人から伝え聞いた話なのです。

第一、これらの航路は倭国の敵国である狗奴国の領海も横切ることになるので、

女王国=倭国政権関係者にとっては、かなり危険な航路だったはずです。

 

私は弥生時代を安曇族、住吉族、宗像族らの海人族が活躍した時代と考えています。

当時の人々は海人族の船に乗り、倭国韓国、各島々を日々市糴していたのでしょう。

当時、現代の運航会社による船便のようなものがあったのではないかと思われます。

だから私は帯方郡使来倭にも現地の海人族船便を利用したと考えています。

中国へ直接渡る時は距離が長く危険なので、海人族はゲンを担ぎ持齋を立てました。

 

景初三年(AD239)に来倭した際、伊都国駐留していた仮の帯方郡使に対し、

正始元年(AD240)に来倭すると、実際に王都・邪馬台国に詣でた正使・悌儁らは、

末蘆国には上陸せず直接伊都国に入港し、荷を一大率捜露(検閲)されると、

邪馬台国迄の千五百里一大率に案内されて、一月かけて陸行したと思われます。

 

何故なら邪馬台国に詣で、倭女王卑弥呼に謁見する使命を帯びた悌儁らにとって、

意味も無く手前の末蘆国に上陸し、大事な証書、印綬、多量の賜遺之物を抱えた儘、

『行くに前に人を見ず』と書かれる程の悪路をわざわざ陸行する謂われは無く、

倭国入国の検閲所一大率の有った伊都国に直接入港するのが筋だからです。

 

更に、一度荷揚げし捜露した荷を再び船に積んで、今来た航路を伊都国から逆行し、

敵国・狗奴国の領海も横切る危険な水行をむやみに行うとは考えられません

 

また、伊都国から邪馬台国迄陸行一月千五百里とするには根拠があります。

それは唐代の『六典』「歩行一日五十里」と記されていることです。

歩行の話ですから、たぶん唐代と三国時代ではあまり変化は無かったでしょう。

 

確かに「歩行一日五十里」だと50×30=1500なので、歩行一月で千五百里となり、

伊都国から邪馬台国迄の歩行一月が千五百里とされることに見事適合します。

 

只、「歩行一日五十里」の根拠となった中国里(長里)は一里=425m程に対し、

倭国の里程(短里)では、前にも述べたように一里=75m程しかありません。

すると中国の話と思われる「歩行一日五十里」倭国では成り立たなさそうです。

 

このことに関しては、中国には広大な草原や砂漠が拡がっており、

歩行による移動にはあまり支障を来さないであろうが、

倭国の地形は山や谷だらけで、しかも山肌は森林に覆われているので、

同じ距離でも中国に比べ、倭国内を歩行で移動するには、

山越し、崖の上り下り、川の渡渉、谷の遡行などに大きな時間を要します。


だから歩行一日で進める距離は中国倭国とでは、

それぞれの里程(425mと75m)程違うと思われるので、

実距離は中国と違うが倭国でもやはり「歩行一日五十里」が成り立ちそうです。

 

倭国の里程で計算した伊都国邪馬台国間の千五百里は、

1500×(50~100m)=75~150㎞であり、

平均で1500×75m=112500m=112.5㎞程になります。

これに対し、現代の地図上で実際に、

伊都国から筑後国山門郡迄の距離を計測してみると90㎞程しかありません。

 

だがこれは、現代の自動車道は直線化され、橋やトンネルが整っていますが、

弥生時代の歩道は橋もトンネルも無く、曲がりくねった山越道だらけだったので、

当時の道のりは実際に現代よりもかなり長かったはずだと思われます。

 

すると、現代の糸島市からみやま市山門郡迄の自動車道90㎞程が、

弥生時代には伊都国から邪馬台国迄の歩道112.5㎞(千五百里)程であり、

その行程に歩行一月要したことは十分に適当な数値と考えられるでしょう。

 

しかも一大率に案内された正使・悌儁らの王都・邪馬台国詣での際の陸行は、

大勢で大きな荷物を抱えた長い隊列を組んでの陸行だったと思われるから、

頻繁に休憩を擁し、夜毎に宿泊を必要とし、筑後川では渡河の船を要し、

しかも風雨の強い日には停滞・停泊を余儀なくされただろうから、

陸行一月は実際に郡使が陸行する日程として、十分に必要だと思われます。


 

 

 

 

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